借りぐらしのアリエッティ
2010.12.27東海大学の中正堂で上映。スポンサー付きの上映イベントで、上映開始前にはいろいろと時間がかかった。
物語が非常に簡単であるのに、観客の視線を釘付けにした。
2010/12/28
2010/12/26
巴黎夜未眠
巴黎夜未眠
一部我非常喜愛的電影。讓我可以找尋到似乎已經失落許久的法國電影的氛圍。那份對自己的真,是很難呈現的,起碼總是在表層追尋關係的台灣電影,就沒有這種空間,我唯一可以看到類似的台灣電影,只有《陽陽》,而有趣的是,劇中的陽陽,有法國血統!這不純屬巧合的設定,讓我衝動地想要寫下一篇較長的感想,隨便,例如《我看《陽陽》》這種觀感。不過,這個衝動,還沒付諸行動。
一部我非常喜愛的電影。讓我可以找尋到似乎已經失落許久的法國電影的氛圍。那份對自己的真,是很難呈現的,起碼總是在表層追尋關係的台灣電影,就沒有這種空間,我唯一可以看到類似的台灣電影,只有《陽陽》,而有趣的是,劇中的陽陽,有法國血統!這不純屬巧合的設定,讓我衝動地想要寫下一篇較長的感想,隨便,例如《我看《陽陽》》這種觀感。不過,這個衝動,還沒付諸行動。
Match Point
愛情決勝點 Match Point
今天在HBO《Chasing Liberty》(台灣翻成《第一千金歐遊記》)看到Matthew Goode,讓我想起這部片。伍迪愛倫導的這部片曾給我留下很深的印象。具有濃厚推理性質的本片,仍然不缺伍迪愛倫的心理探索。
今天在HBO《Chasing Liberty》(台灣翻成《第一千金歐遊記》)看到Matthew Goode,讓我想起這部片。伍迪愛倫導的這部片曾給我留下很深的印象。具有濃厚推理性質的本片,仍然不缺伍迪愛倫的心理探索。
帕納大師的魔幻冒險
帕納大師的魔幻冒險 The Imaginarium of Doctor Parnassus
這是無意中看到的片子,卻覺得很不錯。2010.12.25於新光Italy。它讓我聯想到非常早期的德國印象派電影,仍是無聲電影的那個時代的作品。居然是一種驚艷。
這是無意中看到的片子,卻覺得很不錯。2010.12.25於新光Italy。它讓我聯想到非常早期的德國印象派電影,仍是無聲電影的那個時代的作品。居然是一種驚艷。
創 光速戰記 Tron
創 光速戰記 Tron
2010.12.25於台中新光。影像和劇情設定都很常見。螢幕上的那些光速,看起來像是一種另類版的星際大戰,而劇情,仍是男孩尋找[父親]。。。只能說這是一部喜歡飆車遊戲和運動式打鬥的男女都會喜歡欣賞的一部片,起碼它的創點就足以讓你/妳說,[coooooooool]。我覺得比較新鮮的是,自我生成的ISO這個點子,從頭到尾。其他,那些[眼前的幸福][日出日落]等,好像原始的《猿の惑星》系列,或是之後好萊塢系列片,都能看到。好笑的是,二戰紀錄畫面常見的[精神喊話]居然還活靈活現,這個對我來說,是個[笑點]。
嗯,這次的觀感讓我用了太多括弧了。
2010.12.25於台中新光。影像和劇情設定都很常見。螢幕上的那些光速,看起來像是一種另類版的星際大戰,而劇情,仍是男孩尋找[父親]。。。只能說這是一部喜歡飆車遊戲和運動式打鬥的男女都會喜歡欣賞的一部片,起碼它的創點就足以讓你/妳說,[coooooooool]。我覺得比較新鮮的是,自我生成的ISO這個點子,從頭到尾。其他,那些[眼前的幸福][日出日落]等,好像原始的《猿の惑星》系列,或是之後好萊塢系列片,都能看到。好笑的是,二戰紀錄畫面常見的[精神喊話]居然還活靈活現,這個對我來說,是個[笑點]。
嗯,這次的觀感讓我用了太多括弧了。
2010/12/24
維多利亞女王
維多利亞女王 風華絕代 The Young Victoria
繼《伊利莎白女皇》之後,我看了這部《維多利亞女王》。2010/12/24。必須說,沒有《伊莉莎白女皇》好看。對主演維多利亞的Emily Blunt來說,我比較欣賞她在《穿著PRADA的惡魔》裡的演出。在那部片裡,她更能突顯她自己的特色。對本片,我較為不滿的是,愛情描寫著墨過多,似乎是跟著伊莉莎白片跑。就好像最近的《色遇》像是另一部《Mr. and Mrs. Smith》一樣。而這些隨後跟上的片子,一如往常,較前作遜色太多。
繼《伊利莎白女皇》之後,我看了這部《維多利亞女王》。2010/12/24。必須說,沒有《伊莉莎白女皇》好看。對主演維多利亞的Emily Blunt來說,我比較欣賞她在《穿著PRADA的惡魔》裡的演出。在那部片裡,她更能突顯她自己的特色。對本片,我較為不滿的是,愛情描寫著墨過多,似乎是跟著伊莉莎白片跑。就好像最近的《色遇》像是另一部《Mr. and Mrs. Smith》一樣。而這些隨後跟上的片子,一如往常,較前作遜色太多。
魔龍傳說2--仁者無敵
魔龍傳說2--仁者無敵
Dungeons and Dragons 2: The Elemental Might
會觀賞這部片,其實只是看看片子裡和D&D之間的相似性有多高。既然片名很爽快的就標上D&D,那當然各式條件就得按部就班來。這部片是在好萊塢電影台看到的,從人物裝扮和角色看來,整個群組無疑就是一般我們熟悉的D&D。只是,即使是這部片子吻合D&D的設定,但是整個故事構造,也就是在D&D設定裡雖然沒有故事性的限定,但是這一類的作品是否能贏得觀眾或群眾的青睞,其故事構造仍然是一個重要的因素。2010/12/23
2010/12/20
Four Christmas
Four Christmas
2010/11/20在台灣HBO上看到。一開始幾乎就讓我笑翻天(好吧,只是一個很小的梗而已,沒看過的人請別過份期待),然後接下來,其實就是一些我們觀眾們都可能想像到的情節。我想的是,它如何一直牽引著觀眾群,當觀眾都能預料到接下來這些劇中人物將遭遇到什麼事?
2010/11/20在台灣HBO上看到。一開始幾乎就讓我笑翻天(好吧,只是一個很小的梗而已,沒看過的人請別過份期待),然後接下來,其實就是一些我們觀眾們都可能想像到的情節。我想的是,它如何一直牽引著觀眾群,當觀眾都能預料到接下來這些劇中人物將遭遇到什麼事?
2010/12/19
不一樣的月光
不一樣的月光 Inina Ptnaq Na Bcingan
有關《沙韻之鐘》的言說。2011年3月25日將要上映。由原住民以身在黑皮部落的一員拍攝出來的影片。 在《世界電影雜誌》介紹的上映日期是2010/9/24。
有關《沙韻之鐘》的言說。2011年3月25日將要上映。由原住民以身在黑皮部落的一員拍攝出來的影片。 在《世界電影雜誌》介紹的上映日期是2010/9/24。
挪威的森林
挪威的森林
2010年12月24日要在台灣上映。既是演技派的演員松山研一和菊地凜子的競演,該是會被詮釋得很好的作品才是。村上春樹的這個暢銷小說,一直以來就有多次改編搬上螢幕的機會,至今才實現,應該也有他許多的考量。只是挑選松山研一來飾演渡邊徹,電影裡的造型神似作者村上春樹,這對觀眾來說,雖別有一番風情,但也覺得有種被強迫將主角與作者之間的關係緊縮,而失去想像的自由與空間,個人還是覺得這非常遺憾。作中角色與作者的距離,為什麼不能交給觀賞者去定位?或者是,導演有意加入私小說元素?這該說是私小說的復權,還是反轉私小說的手法?
不過,話說回來,背叛讀者的想像,一向是件[好事]。
附上日本 Cinema.Café 的特輯。有關台灣的報導在此。
2010年12月24日要在台灣上映。既是演技派的演員松山研一和菊地凜子的競演,該是會被詮釋得很好的作品才是。村上春樹的這個暢銷小說,一直以來就有多次改編搬上螢幕的機會,至今才實現,應該也有他許多的考量。只是挑選松山研一來飾演渡邊徹,電影裡的造型神似作者村上春樹,這對觀眾來說,雖別有一番風情,但也覺得有種被強迫將主角與作者之間的關係緊縮,而失去想像的自由與空間,個人還是覺得這非常遺憾。作中角色與作者的距離,為什麼不能交給觀賞者去定位?或者是,導演有意加入私小說元素?這該說是私小說的復權,還是反轉私小說的手法?
不過,話說回來,背叛讀者的想像,一向是件[好事]。
附上日本 Cinema.Café 的特輯。有關台灣的報導在此。
2010/12/18
眼淚
眼淚
這是在校內舉辦的電影月活動裡出現的片子。一整個月的上映期間,我竟然只能去看這一場實在是心有不甘。誰教我所有的東西都趕在這個時期做?
回歸正題。蔡振南演的這個抑鬱內藏的角色,算是把以往狠角色的爆勁都收斂了下來。為了詮釋這個過去曾經暴力現在深悔暴力的警員,蔡振南喪失了一份因窮追不捨的執著而內斂的精幹,即使戲內安排如是。
當天(2010/12/13)女角之一的Doris也來校分享,樂團活動為主業的她,在分享時有一份不同於電影人的氛圍。現場有關樂團的提問還不少,對我而言,雖然樂團訊息也不錯,但剛看完電影,還是比較希望能聽到更多的電影點滴。
不知道這算不算破梗,我還是要說,結局留下個殘酷的問答。無從歸咎的社會責任,究竟誰是弱勢誰是強潮?到最後看到的罪魁禍首,竟似社會大眾--也就是我們自己,這縱容妥協,盲目短視的一群。殊不知眼前的關懷可轉化為暴戾,為求 心安理得的同情會帶來更大的鄙視,繼而轉化成自我的優越。
再來,目前類似國片的消費方式,似乎也令人在意。[教化],令人恐懼。
這是在校內舉辦的電影月活動裡出現的片子。一整個月的上映期間,我竟然只能去看這一場實在是心有不甘。誰教我所有的東西都趕在這個時期做?
回歸正題。蔡振南演的這個抑鬱內藏的角色,算是把以往狠角色的爆勁都收斂了下來。為了詮釋這個過去曾經暴力現在深悔暴力的警員,蔡振南喪失了一份因窮追不捨的執著而內斂的精幹,即使戲內安排如是。
當天(2010/12/13)女角之一的Doris也來校分享,樂團活動為主業的她,在分享時有一份不同於電影人的氛圍。現場有關樂團的提問還不少,對我而言,雖然樂團訊息也不錯,但剛看完電影,還是比較希望能聽到更多的電影點滴。
不知道這算不算破梗,我還是要說,結局留下個殘酷的問答。無從歸咎的社會責任,究竟誰是弱勢誰是強潮?到最後看到的罪魁禍首,竟似社會大眾--也就是我們自己,這縱容妥協,盲目短視的一群。殊不知眼前的關懷可轉化為暴戾,為求 心安理得的同情會帶來更大的鄙視,繼而轉化成自我的優越。
再來,目前類似國片的消費方式,似乎也令人在意。[教化],令人恐懼。
劍雨
劍雨 Reign of Assasins
2010年10月25日在台中新光和學生一起選擇這部作品觀賞的主要原因在於,它是《詭絲》的導演蘇照彬的作品。看到國外電影網頁上的風評不禁讓我思考,有人寫說它是部很令人感動的作品,到底指的是那一點?是超越仇恨?是為愛彼此守護犧牲?還是為了男性尊嚴的無法復權所帶來的悲哀?或是鞭策貪慾放蕩的狂野所帶來的一聲快哉?!
總之,不能不說這裡的兩元對比是十分強烈的。愛與仇恨,精神與愛慾,隱世與顯世,出家與入世,現實與理想........諷刺的是,一代高僧褪去枯榮之後的軀體,解救的不是眾生,竟是燃起為私利而殺戮的戰火,開啓了通往腥風血雨不斷的地獄之門。
從現代看武俠。自有一番真實味。這是現今日本在貧困武士身上找尋上班族的無奈有幾分相似。我們總是最愛,[人在江湖,身不由己]。
2010年10月25日在台中新光和學生一起選擇這部作品觀賞的主要原因在於,它是《詭絲》的導演蘇照彬的作品。看到國外電影網頁上的風評不禁讓我思考,有人寫說它是部很令人感動的作品,到底指的是那一點?是超越仇恨?是為愛彼此守護犧牲?還是為了男性尊嚴的無法復權所帶來的悲哀?或是鞭策貪慾放蕩的狂野所帶來的一聲快哉?!
總之,不能不說這裡的兩元對比是十分強烈的。愛與仇恨,精神與愛慾,隱世與顯世,出家與入世,現實與理想........諷刺的是,一代高僧褪去枯榮之後的軀體,解救的不是眾生,竟是燃起為私利而殺戮的戰火,開啓了通往腥風血雨不斷的地獄之門。
從現代看武俠。自有一番真實味。這是現今日本在貧困武士身上找尋上班族的無奈有幾分相似。我們總是最愛,[人在江湖,身不由己]。
2010/12/17
MPro 2011年の活動
「台湾における探偵小説の同人、その現場から」
来年から開催する予定となっているの座談会は、台湾東海大学修士コースのMedia Project(通称MPro)が主催。
発案者はいまMProに参加してくれている劉さん。普段から台湾の探偵小説の同人に注目し、現在台湾の出版会の動向とつき合わせて観ると、いまの台湾の探偵小説の発展が見えてくるとい う。数多くの海外作家の作品が出版されるなか、台湾本土の作家として同人を出し続けるグループがある。そのグループから創作談や出版のことについていろい ろ話を聞こうというのが、この企画を発案した当初の考えだそうだ。
現段階はすでに同人誌を発行したグループメンバーとの接触を開始し、お互いに考えを確認しつつ、座談会の内容をすり合わせている最中である。
座談会の開催が、楽しみだ。
来年から開催する予定となっているの座談会は、台湾東海大学修士コースのMedia Project(通称MPro)が主催。
発案者はいまMProに参加してくれている劉さん。普段から台湾の探偵小説の同人に注目し、現在台湾の出版会の動向とつき合わせて観ると、いまの台湾の探偵小説の発展が見えてくるとい う。数多くの海外作家の作品が出版されるなか、台湾本土の作家として同人を出し続けるグループがある。そのグループから創作談や出版のことについていろい ろ話を聞こうというのが、この企画を発案した当初の考えだそうだ。
現段階はすでに同人誌を発行したグループメンバーとの接触を開始し、お互いに考えを確認しつつ、座談会の内容をすり合わせている最中である。
座談会の開催が、楽しみだ。
Tears of the Sun
Tears of the Sun
大分前に見た映画。今日はHBOで放送されたので、また見てしまった。ブルースウィリス主演のものから言えば、それほど新鮮味のあるフィルムではないが、しかしアフリカの宗教、人種の衝突に介入するアメリカへの批判も見えてこなくはない。
大分前に見た映画。今日はHBOで放送されたので、また見てしまった。ブルースウィリス主演のものから言えば、それほど新鮮味のあるフィルムではないが、しかしアフリカの宗教、人種の衝突に介入するアメリカへの批判も見えてこなくはない。
The Remains of the Day
The Remains of the Day
カズオ・イシグロの同名小説『日の名残り』から映像化された作品。この映画を観たのはだいぶ前だったが、今日、ケーブルテレビで上映しているのに気付き、再度観ることにした。どこか切ない気分にさせられるのは、きっと主人公の愛が実れないまま終わってしまう結末なのだろうか。それにしても、原作を読んだ時は、あまり主人公の恋愛について描かれているところを気にせずよんでしまったせいか、映画にはある種の違和感を感じる。
Another Link
カズオ・イシグロの同名小説『日の名残り』から映像化された作品。この映画を観たのはだいぶ前だったが、今日、ケーブルテレビで上映しているのに気付き、再度観ることにした。どこか切ない気分にさせられるのは、きっと主人公の愛が実れないまま終わってしまう結末なのだろうか。それにしても、原作を読んだ時は、あまり主人公の恋愛について描かれているところを気にせずよんでしまったせいか、映画にはある種の違和感を感じる。
Another Link
The Soloist
The Soloist
この映画は9/20、ケーブルテレビの放送で観た。映画なのだが、ドキュメンタリーを観ているように感じさせられる作品である。ジャーナリストとしてのポ リシー。社会の実情を反映するとはどういうことなのか。仕事としてやる以上、報道される側を利用する立場に立たないでいられるのか。人を助けるとはどうい うことか。いいと思うことなら、たとえ相手が嫌がっていても強制するべきなのか、などなどを考えさせられる作品だった。
現在わたし自身がいる環境のなかで、このようなことをつい考えてしまう。社会と関わるなかで、いわゆる社会からみた「弱者」に接触する時に、ボランティア の気持ちを、つまり誰かを「助けている」という思い上がった気持ちを持たずして接することができるのか。そのようなことをついつい考えてしまう。これと似 たような問いを、この映画にもあるような気がする。
この映画は9/20、ケーブルテレビの放送で観た。映画なのだが、ドキュメンタリーを観ているように感じさせられる作品である。ジャーナリストとしてのポ リシー。社会の実情を反映するとはどういうことなのか。仕事としてやる以上、報道される側を利用する立場に立たないでいられるのか。人を助けるとはどうい うことか。いいと思うことなら、たとえ相手が嫌がっていても強制するべきなのか、などなどを考えさせられる作品だった。
現在わたし自身がいる環境のなかで、このようなことをつい考えてしまう。社会と関わるなかで、いわゆる社会からみた「弱者」に接触する時に、ボランティア の気持ちを、つまり誰かを「助けている」という思い上がった気持ちを持たずして接することができるのか。そのようなことをついつい考えてしまう。これと似 たような問いを、この映画にもあるような気がする。
The White Countess
The White Countess
日本の邦訳タイトルでは「上海の伯爵夫人」、台湾の邦訳タイトルでは「異国情縁」とつけられたこの映画は、Ishiguro Kazuo の手による脚本、James Ivoryの監督作品である。この映画を初めて見たのはだいぶ前のことだが、最近、台湾のHBOで放送されたのを見て、やはり興味深い作品に思えた。 Ishiguroの脚本でありながら、映画化されてみると、濃厚なエキゾチシズムがいたるところに漂い、ときには息が詰まる思いをしながら見ていくしかな い箇所も少なくない。すでにいろんなところでも書かれているように、この映画は上海を舞台とするわりには、主役となる中国人が一人もいない。租界で生きる 異国の人びとが主役として振る舞うこと自体、植民地主義的であると言わざるをえない。なかでも、主役であるロシア女性の処理がどうしても気になってしかた がない。戦乱のなかを生き抜く女性を、なぜかどこか「シンデレラ物語」として処理してしまっている。英文、日文、中文のタイトルのどれも、このロシアの女 性が焦点であると指し示しているのに、主役不在の、あるいは伯爵夫人を支えた恋人の外交官(ラルフ)や、その友人である松田(真田)らの登場人物に主役の 座を奪われている。こうしたあまりにも典型的に反転する構造が、この映画を陳腐なものにしていく。
日本の邦訳タイトルでは「上海の伯爵夫人」、台湾の邦訳タイトルでは「異国情縁」とつけられたこの映画は、Ishiguro Kazuo の手による脚本、James Ivoryの監督作品である。この映画を初めて見たのはだいぶ前のことだが、最近、台湾のHBOで放送されたのを見て、やはり興味深い作品に思えた。 Ishiguroの脚本でありながら、映画化されてみると、濃厚なエキゾチシズムがいたるところに漂い、ときには息が詰まる思いをしながら見ていくしかな い箇所も少なくない。すでにいろんなところでも書かれているように、この映画は上海を舞台とするわりには、主役となる中国人が一人もいない。租界で生きる 異国の人びとが主役として振る舞うこと自体、植民地主義的であると言わざるをえない。なかでも、主役であるロシア女性の処理がどうしても気になってしかた がない。戦乱のなかを生き抜く女性を、なぜかどこか「シンデレラ物語」として処理してしまっている。英文、日文、中文のタイトルのどれも、このロシアの女 性が焦点であると指し示しているのに、主役不在の、あるいは伯爵夫人を支えた恋人の外交官(ラルフ)や、その友人である松田(真田)らの登場人物に主役の 座を奪われている。こうしたあまりにも典型的に反転する構造が、この映画を陳腐なものにしていく。
幫幫我愛神 HELP ME EROS
「幫幫我愛神」は2007年1月11日に台湾 全国で上映開始。それまでは、監督の李康生、プロデゥーサーの蔡明亮、そして出演者の一人である女優、Fanny が全国の大学を廻り、講演会を開き、撮影風景やいわゆる<芸術映画>がいかに受けが悪いのかという、今日の台湾映画界の苦労話など、ざくばらんに大学生た ちを相手に、淡々と話してはチケットを売りさばく。
思うに、蔡明亮は、行脚監督である。
彼が話したように、世界で認められ、数々の賞をもらっても興行によい影響を与えるわけではない。台中の三越デパートの14階にある映画館でこの映画を観た 際、観衆の数は実に予想以上に少なかった。<芸術映画>は逆に敬遠される口実すらなると。その悲哀の背後には、芸術家蔡明亮の意地がある。
思うに、蔡明亮は、行脚監督である。
彼が話したように、世界で認められ、数々の賞をもらっても興行によい影響を与えるわけではない。台中の三越デパートの14階にある映画館でこの映画を観た 際、観衆の数は実に予想以上に少なかった。<芸術映画>は逆に敬遠される口実すらなると。その悲哀の背後には、芸術家蔡明亮の意地がある。
Elizabeth Town
この映画を観たのは、台湾に戻ってからのこ と。たまたまケーブルテレビで放送されているのを見つけて何気なく観た。映画の出だしから主人公の悲惨な?とでも言えるような出来事が相次ぎ、それからは ロードムービーのお決まりの旅で。しかし、私がもっとも気に入っているのは、登場人物の悲しみよりも、主人公のために、その女ともだちが作ったスペシャル マップのこと。いつか、私も友達のために、そのような、スペシャルマップ、台湾あるいは台中のスペシャルマップが作れたら、どんなに素敵だろうか。その日 がやってくるまで、台湾や台中のいろいろな素敵なところをたくさんみようとおもう。
The Constant Gardener
この映画はコーネル大学のキャンパス内にある劇場で観た。当時はそれほど期 待せずに劇場に足を運んだのだが、予想以上のものに接したせいか、この映画を見たあとの衝撃は大きかった。立ちはだかる大きな勢力を前に、一人の人間はな にができるのかを一つの可能性、一つのかたちで以て見せてくれた。それにしても、いったいこのタイトル、"The Constant Gardener" からなにを想像すればいいのだろうか。
Crash
CRASH
この映画には、各階層の登場人物の偶然なる出会いが設定され、それぞれの物語が交差するかたちになっている。人間と人間、こころとこころがぶつかりあう。 その時の、行き違い、あるいは通いあうことのできない諸々な感情や気持ちがやがて、予想もつかない方向へと向かう。例えば、親孝行をしようとする黒人の警 部の物語。生きる気力を失った母親のために、仕事の合間を縫ってスーパーから新鮮な食材を運んでは、また冷蔵庫で古くなっていく手つかずの食材を捨てると いうことを繰り返さなければならなくても、決してあきらめずに母親をサポートしようとした。ところが、母親の方は彼にしばらく失踪?した弟を早く見つけて くることだけを望んだ。結果として、彼の弟はある誤解で殺され、亡き姿で彼の目の前に。そのとき母親が彼に投げた言葉は、スーパーでものを買ってくるより は、その時間で弟を捜してほしかった、と。少しでも早く弟を見つけていれば悲劇は回避できたんだと.......人助けの場合、相手はいったい何を望んで なにを必要としているのかを見極めなければならない.......この警部の場合は、母親がなぜ生きる気力を失ったのかをみるべきだったのか。自分がいく らがんばっても母親に振り向いてもらえない心理からか、弟を捜すのを二の次の問題にしてしまった。そのため、逆に母親の愛を失っていく。
ほかの登場人物はほとんど喜劇?に近い結末だったのに対して、この黒人警部だけは悲しい結末を迎えることになっている。しかし、例えば、裕福でインテリの 黒人夫婦の場合、果たしていつになったら外部からの差別を受けずにすむのか、そうした面から言えば、問題は相変わらず残ることになる。
この映画には、各階層の登場人物の偶然なる出会いが設定され、それぞれの物語が交差するかたちになっている。人間と人間、こころとこころがぶつかりあう。 その時の、行き違い、あるいは通いあうことのできない諸々な感情や気持ちがやがて、予想もつかない方向へと向かう。例えば、親孝行をしようとする黒人の警 部の物語。生きる気力を失った母親のために、仕事の合間を縫ってスーパーから新鮮な食材を運んでは、また冷蔵庫で古くなっていく手つかずの食材を捨てると いうことを繰り返さなければならなくても、決してあきらめずに母親をサポートしようとした。ところが、母親の方は彼にしばらく失踪?した弟を早く見つけて くることだけを望んだ。結果として、彼の弟はある誤解で殺され、亡き姿で彼の目の前に。そのとき母親が彼に投げた言葉は、スーパーでものを買ってくるより は、その時間で弟を捜してほしかった、と。少しでも早く弟を見つけていれば悲劇は回避できたんだと.......人助けの場合、相手はいったい何を望んで なにを必要としているのかを見極めなければならない.......この警部の場合は、母親がなぜ生きる気力を失ったのかをみるべきだったのか。自分がいく らがんばっても母親に振り向いてもらえない心理からか、弟を捜すのを二の次の問題にしてしまった。そのため、逆に母親の愛を失っていく。
ほかの登場人物はほとんど喜劇?に近い結末だったのに対して、この黒人警部だけは悲しい結末を迎えることになっている。しかし、例えば、裕福でインテリの 黒人夫婦の場合、果たしていつになったら外部からの差別を受けずにすむのか、そうした面から言えば、問題は相変わらず残ることになる。
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